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小酒盛  [2007年03月23日(金)]

 秋の夜

秋の夜長に
こほろぎは
コロコロコロコロ
糸をひく

寒さが来るから
来るからと
コロコロコロコロ
糸をひく

子供が寒むがる
寒むがると
コロコロコロコロ
糸をひく

寒さが来るから
こほろぎは
子供の着物を
織る気だろ


 田甫の狐

昔わたしの生まれた村の田甫(たんぼ)に古狐がゐました。若い女に化けて旅人をだました話があります。

  田甫の狐は
  赤い櫛さして
  赤い帯しめて
  うしろ姿見せて
  三味線弾いてた

それから風船玉に化けて村の子供をだまさうとした話もあります。

  田甫の狐は
  芒(すすき)の蔭で
  赤い風船 飛ばした
  青い風船
  飛ばした

ある時は河童のお芥子(けし)坊主と畑の中で酒盛をしてゐた話もあります。

  田甫の狐は
  河童の
  お芥子坊と
  畑の中で
  小酒盛してた


 隣村の狐

わたしの生れた村の隣村の田甫(たんほ)にも悪い古狐が居ました。ある時おさよと云ふ村の娘に化けて五兵衛さんの家の裏を馬に乗つて通りました。

自分の2006年を漢字一文字で表現すると?  [2006年12月28日(木)]

自分の2006年を漢字一文字で表現すると?
みなさんは、どんな文字になるのでしょうか。

私は、考えてみましたが、




かな。出発地点にまだいるって意味です。

2007年の飛躍を目指したいと思います。

小梅  [2006年11月08日(水)]

の広告があった。

びっくりした。。。。


小梅もさがりぎみかな???

偏見  [2006年09月19日(火)]

五年生だったとき、一人の同級生が、ある日きれいに薄化粧して来た。朝の第一時間がはじまったとき、担当の年をとった女先生から、その顔をすぐ洗って来るようにと命ぜられた。その一人が教室に戻って来るまで授業ははじめられず、みんな着席したまま固唾をのんで待っていた。やがて涙も一緒に水道の水でごしごしこすった顔を因幡の兎のように赤むけに光らして、しんから切なさそうにそのひとが席へ帰って来たとき、三十二人の全級はどういう感じにうたれたろう。こわさと一緒に惨酷さがわたしの体をふるわせた。
 こういう忘れられない情景が、さながらに描き出されたとき、そこに奇妙な現象がおこった。客観的に描かれてみれば誰の目にも、そういう命令の与えかたのむごさははっきりしたのだけれども、そのむごさが鮮明に感銘されればされるほど、そういうものを書くのは忘恩的だという判断が、わたしに向けられた。そんなにその頃は、絶対性が卒業生の気分を支配していたのだった。
 その上、わたしの不運は、同級生のなかに仕事をもってそれで生きて行こうとしている友達が殆ど一人もなかったことからも起った。自分で選んだ結婚をして、数年後、その生活が破れた。このことも友達たちの生活と一つ調子に進行しなかった。もっと都合のわるかったことは、日本に治安維持法という法律がつい先頃まであったことだった。治安維持法が非人間な悪法であるということを理解しなかった人たちにとっては、自分の学校の卒業生が女のくせに、そういう法律にとがめられて入獄するというようなことは、恥辱のことと思われたのだろう。いまは、それらの人たちも「愛情は降る星の如く」に対して、けがらわしい死刑囚の書簡集だとは云うまいけれども。
 いくつかのこういう事情がたたまって、わたしは学校と疎遠になっていたのだった。それを別のひろい表現で云えば、旧い日本の上流中流の生活を支配していた常識の狭さや無智にされているままの偏見との間に、そんなに永年の摩擦があったのであった。そうである。

起きる  [2006年09月18日(月)]

起きる qichuang
寝る shuijiao
着る chuan
探す zhao
買う mai
知る zhidao
好む xihuan
休む xiuxi

ブログ  [2006年06月24日(土)]

 良人を、兄を、父を、戦争で奪われた日本の数百万の婦人は、身をもってこの事情を知りつくしている筈だと思う。
 戦争のない日本を創りたい。この痛切な願望を、胸に抱かない一人の婦人もあり得まい。戦争をひきおこす日本の反動勢力を、私たちの社会から排除する、ということは、架空の道を通って実現することではない。今ここに提出されているいくつかの問題を、事実上私たちの発意と、集結された民主力とで、一歩ずつ解決に押しすすめてゆく、その一足が、私たちの眼路はるかに、広々とした民主日本、封建から解かれ、美しく頭をもたげた日本女性の立ち姿を予約しているのである。
 民主戦線の結成ということは、政治めいた言葉と響いているが、私たちは、自分たちの一生が又とくり返しようもない、いとおしいものであることを犇々(ひしひし)と感じている。それがどんなに傷つき不具となっていようとも其故にこそ、ひとしお懐しい生れ故郷である日本を見離しがたく思っている。
 その心持を誠意のこもった現実の力として表現しようとするとき私たちは、一つの救国運動として故国に対する人民の愛と必要に立つ統一的動きを肯定する以外に、どんな道を見出せるだろうか。雄々しいフランスの婦人たちは、フランスが歴史の波瀾を凌いでゆく時々に、いつもその陣頭に旗をかざして進んだ。日本の婦人ばかりが、その熱情さえもたないと、誰が云い得よう。人民、女性の歴史にとって屈辱のしるしのように強いても握らされた白と赤との日本の旗は、今日、日本の婦人自身の手のなかで握り直されなければならない。旗は、よろこびと幸福とへ向って生活の軌道を切りかえる親切と勇気にみちた信号合図の旗として、かざされ、振られなければならない。嬉々とした人生の建設のために構図し、労作する、その高き旗じるしとして、婦人の大集団の上に、勇敢に、はためかなければならないのである。

人民的規模  [2006年04月29日(土)]

こういう、云わば野暮な、問題のありのままの究明が、私たちの心に訴える力をもっているのは、決して只、その問題の書きかたがこれまでの「女の問題」の範囲から溢れた調子をもっているからというばかりではない。この種の問題が、ここで扱われているような場合に――食糧問題は、台所やりくりではなくて、男も女もひっくるめた全人民の生存のための問題であり、女子労働の悪条件と悲劇的な女子失業の現象は、とりも直さず全勤労人口の問題であるとして捉えられたとき――問題のそういう把握を可能としている日本社会の今日の動向そのものの中に、はっきり、問題の現実的解決の方向が示されているからである。
 云いかえれば、今日これからの問題は、私たち婦人にとって、又日本の全人民にとって「読むために書かれている」のではなくて、事実の性質とその解決の方向を明らかにして、たとえ半歩なりともその方へ歩き出すための矢じるしの一つとして、書かれている。云わば、番地入りの地図として書かれている。それだからこそ、私たちの生活の必要にぴったりと結びついており、生活的関心はトピックに対する最も強い興味であることを証明しているのであると思う。
 食糧問題についても、私たちは随分長いこと、分不相応な苦痛と努力と七転八倒的なやりくりを経験して来た。多くの人々が、この問題の本質上、今日ではもう個人的解決の時期を全くすぎていて、これは人民的規模において、男女共通に、共通の方法に参加して、各種の管理委員会をこしらえて、自主的な圧力で改善してゆくことに決心したら、どんなに早く、解決の緒につくことだろう。配給と買出しにしばられて、会合に出席する時間さえもてないでいる主婦たちの毎日が、どんなに凌ぐに張合あるものとなって来るだろう。大小の軍需成金たちは、戦時利得税や、財産税をのがれるために濫費、買い漁りをしているから、インフレーションは決して緩和されない。却って、最近悪化して来ている。いくら、待遇改善しても、月給は物価に追いつく時は決してない。これがインフレーションの特徴である。めいめいの財布は空となって、遂にほうり出されている形である。闇の循環で、細々生きているような生命の扱いかたをどんな婦人がよろこばしいと思うだろう。

脚氣問題で冷笑さる   [2006年04月14日(金)]

脚氣問題で冷笑さる
 斯くて人間にも「オリザニン」の必要なことが確められ、而して白米中には全然これを含まないから、人間の脚氣も必ず「オリザニン」缺乏が原因であらうと信ずるやうになつたのである。が、私が醫者でないために、人間に試驗をするのに非常な不便を感じた。
 最初泉橋病院の若い醫學士に「オリザニン」を送つて試驗を依頼した處 一ヶ月ばかり經つてから「一人の勞働者に試驗した處、その患者は三日ばかりで輕快したと云つて、その後は來なかつた。もう一人は餘程重症であつたが、數日間の服用で非常に輕快に赴いたと云ひ、未だ症状が充分消失しない内に退院してしまつた。多分「オリザニン」が效いたのだと思ふが、併し脚氣は他の療法でも癒るから、これが特效藥だとは云はれない、もつと繼續して試驗することは、主任の先生が許さないから、これでお斷りする」といふのであつた。
 その次に、私の同郷の開業醫が日本橋に居つたから、その人に頼んだが、斷りの手紙を寄越した。そんな譯で、甚だ信用がなくて閉口した。
 東京化學會で私が(「オリザニン」は脚氣に效くだらう」)と述べたことを、當時醫界の大立者だつた某博士が傳へ聞かれて「鈴木が脚氣に糠が效くと云つたさうだが、馬鹿げた話だ、鰯の頭も信心からだ、糠で脚氣が癒るなら、小便を飮んでも癒る……」と、或る新聞記者に話されたことがあつた。
 其後私が同博士に逢つた時「君が脚氣の原因を見付けたといふことを人から聞いたが、それは嘘だらうと云つてやつた」と私に云はれた。私が醫者でも藥學者でもないから、脚氣などが判るもんかと思はれたのであらう。
 程經て、私が青山の農業大學へ教へに行つた時のこと、途で一人の學生が他の學生の肩につかまつて來るのを見た。どうしたんだと聞いたら、脚氣で動けないのだが、今日は試驗があるから助けて學校へ連れて來たといふ。それで私が藥をやるからといつて、直ちに三共會社から「オリザニン」を二瓶取り寄せて、くれてやつた。すると二、三日後にその學生が私の宅までやつて來て、先生に藥を貰つて飮んだところが、不思議に早く癒つた、自分は青山の四丁目に下宿して居るが、今日は御禮に來たと云つて、普通の人の樣に、歩き方も確かであつた。その時分は電車もなかつたので、無論往復一里餘も徒歩だつたのである。その學生は一瓶で癒つたから、殘りの一瓶は大切に保存して置くと云つて居た。
 もう一つ、私の郷里の青年が脚氣になつたので、國に歸る爲に出發した處、汽車の中で衝心して、已むなく途中で下車し、小田原の病院に入つたが、危篤だから直ぐ來いといふ電報を、私の隣家の知人の許に寄越した。その時私は「オリザニン」を二瓶持たせて、院長と相談の上、服用させてくれと頼んだ。ところが、二、三日ですつかり輕快し、一週間ばかりで國へ歸つた。患者の方では、意外の效果に驚いたといつて、感謝の手紙を寄越したが、院長は私の與へた藥が效いたとは云はなかつたやうだ。
 また或時、私の實驗室の研究生が理髮店に行つたところ、奧で何だか大騷ぎをして居るので理由を訊くと、主人が脚氣衝心を起して悶へ苦んで居るのだといふ。その時、研究生は恰度ポツケツトに「オリザニン」を入れて居つたので、「これは脚氣に良い藥だ、眼の前で服用して見ろ」といつて、一瓶を半分ばかり服用させた。すると三十分ばかりの内に、今まで非常に苦悶して居つた病人がケロリと平靜になつたので、翌日までに全部服用させたら、全快して、大に感謝されたといふことであつた。
 そんな報告は、澤山集めて居つたが、自分が醫者でないから、發表する事が出來なかつた。

ヴィタミンなる名稱  [2006年04月14日(金)]

ヴィタミンなる名稱
「オリザニン」の發見より一年ばかり遲れて、英國リスター研究所に於て、フンク氏が私と同樣の有效成分を抽出せることを報告した(明治四十五年二月)。而してその命名せる「ヴィタミン」なる名稱が世界一般に使用された爲に、兎角フンク氏が先鞭をつけたものゝやうに思ひ誤まられ易いが、併し當時フンク氏は、單にこれを以て鳥類の脚氣樣疾患を治癒せしむべき成分と見做し、それが榮養上如何なる意義を有するかに就ては、實驗もせず、またこれに論及もしなかつた。たゞ氏がこれを結晶状に抽出したことを發表した爲め、世人の注意を惹いたのである。が、それは誤りで、その結晶なるものは有效成分ではなく、私が既に發見せるニコチン酸であつたのである。私は日本に於て數年前より發表せる成績十數報に亘る論文を一括して、一九一二年(明治四十五年八月)、獨逸生化學雜誌に掲載したのであるけれど、初めは日本文のみで發表した爲めに、素より外國人の目には觸れず、恰かもフンク氏より後れたかの觀を呈したのである。
 私は前に述べたやうに、配合飼料を造つたり、また白米を用ひて「オリザニン」の效力を確かめたので、更に多くの動物に試驗しようと企て、豚、羊、犬、猫、鳩、鷄、鼠等より、下等菌類や酵母バクテリヤの類にまで試驗したのであるが、特殊の糸状菌及びバクテリヤを除く外、高等動物には總て必要缺くべからざるものであることを證明した。これには多數の共同研究者の助力を得たのである。
 また人間に必要の程度を試驗するため、大正三年に鈴木文助氏(舊姓荒木)と東京市の養育院に於て滿一ヶ年間二十人の小兒に就て、「オリザニン」を與へたるものと、與へないものとの發育状態を調査し、良好の結果を得た。(これには養育院の伊丹醫學博士等の援助を得た。)

獅子の窟(いわや)  [2006年04月05日(水)]

十五になった。
 去年の暮の試験に大淘汰(とうた)があって、どの級からも退学になったものがあった。そしてこの犠牲の候補者は過半軟派から出た。埴生なんぞのようなちびさえ一しょに退治られたのである。
 逸見も退学した。しかしこれはつい昨今急激な軟化をして、着物の袖を長くし、袴の裾を長くし、天を指していた椶櫚(しゅろ)のような髪の毛に香油を塗っていたのであった。
 この頃僕に古賀と児島との二人の親友が出来た。
 古賀は顴骨(かんこつ)の張った、四角な、赭(あか)ら顔の大男である。安達(あだち)という美少年に特別な保護を加えている処から、服装から何から、誰が見ても硬派中の鏘々(そうそう)たるものである。それが去年の秋頃から僕に近づくように努める。僕は例の短刀の※(つか)を握らざることを得なかった。
 然るに淘汰の跡で、寄宿舎の部屋割が極まって見ると、僕は古賀と同室になっていた。鰐口は顔に嘲弄(ちょうろう)の色を浮べて、こう云った。
「さあ。あんたあ古賀さあの処へ往って可哀がって貰いんされえか。あはははは」
 例のとおりお父様の声色(こわいろ)である。この男は少しも僕を保護してはくれなんだ。しかし僕は構わぬのが難有(ありがた)かった。彼の cynic な言語挙動は始終僕に不愉快を感ぜしめるが、とにかく彼も一種の奇峭(きしょう)な性格である。同級の詩人が彼に贈った詩の結句は、竹窓夜静にして韓非(かんぴ)を読むというのであった。人が彼を畏(おそ)れ憚る。それが間接に、僕の為めには保護になっていたのである。
 僕はこの間接の保護を失わねばならない。そして頗る危険なる古賀の室へ引き越さねばならない。僕は覚えず慄然(りつぜん)とした。
 僕は獅子の窟(いわや)に這入るような積(つもり)で引き越して行った。埴生が、君の目は基線を上にした三角だと云ったが、その倒三角形の目がいよいよ稜(かど)立っていたであろう。古賀は本も何も載せてない破机(やぶれづくえ)の前に、鼠色になった古毛布を敷いて、その上に胡坐(あぐら)をかいて、じっと僕を見ている。大きな顔の割に、小さい、真円(まんまる)な目には、喜の色が溢(あふ)れている。
「僕をこわがって逃げ廻っていた癖に、とうとう僕の処へ来たな。はははは」
 彼は破顔一笑した。彼の顔はおどけたような、威厳のあるような、妙な顔である。どうも悪い奴らしくはない。
「割り当てられたから為方(しかた)がない」
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